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【祝!三鉄全線開通】 8年の想いをのせて 

2019年3月25日

目次

三鉄南リアス線と北リアス線が一つになる日

未曾有の震災から8年が経過しました。

 

 

岩手県沿岸を走る鉄道と言えば、第三セクター鉄道方式で運営する三陸鉄道。

久慈市から大船渡市までの沿岸をカバーするこの鉄道も、東日本大震災で甚大な被害を受けた事は言うまでもありません。

画像提供:異人館 安倍 主税様

 

画像提供:異人館 安倍 主税様

 

線路、駅舎、車両。

宮古~釜石間についてはJR東日本が管理するJRと山田線とレールの共用こそしていたものの、当時は廃線も噂されていて近隣住民からは落胆の声も上がっていました。

確かに利用客も年々少なくなっている厳しい赤字路線ではあったものの、地域住民、特に車を持たないお年寄りや通学で利用する学生さんたちの貴重な公共交通機関である”足”を奪うことになってしまいます。

しかしながら、その被害の甚大さを目の当たりにしてきた住民からすれば廃線も致し方のない事なのか?と納得せざるを得なかったというのも、被災当時の率直な心境でもありました。

 

地元出身の国会議員さんをはじめとし、県や行政も国に掛け合た結果、何とか実現した今回の鉄道の復旧。

JRは宮古釜石間約50kmを復旧を終えた状態で三鉄に移管することが決定したも僅か数年前のこと。

沿線の市町村、そして住民の喜びも一入でした。

 

私とて、思い起こすところ30年前.....学生時代は天候の悪い日の通学でお世話になった路線であり、思い入れもありました。

その愛着のある路線を、地元密着型企業でもある三陸鉄道さんが受け継いでくれるというのも、我々住民からすればさらに喜ばしい事でもあるのです。

 

試験運転を経て

1月28日から3月22日まで、乗務員さんの訓練も兼ねての試験運転が約2ヶ月間行われました。

8年間走ることの無かった鉄道。

日々の車の運転中、踏切の前で当たり前のように停止していた日常が震災を期に一時停止しなくてもよくなっていた踏切。

列車が通ることもなかったので当たり前なんですけれど、とても複雑な気持ちでした。

二度とここを列車が走ることは無くなるのか?と想い過ごした数年間。

試験運転が始まった2019年1月、はじめて三鉄の車両が旅館の脇を駆け抜けていった時には、とても感慨深い気持ちで、ただそれを見守っていました。

 

それは、生まれて初めて自宅の脇を列車が通ったのを目の当たりにした、現在の保育園から小学生までの子どもたちも同じ想いであったに違いありません。

私の息子もそうだったようです。

開通することはとても喜ばしい反面、鉄道の怖さを知らない子どもたち。

学校側でも踏み切りの渡り方などの指導はしていたようですが、自宅の目の前を線路が走る当家にとっても、やはり線路は驚異なのです。

震災後、路線復旧の報道がされた直後から、自分の子供には「踏切意外で線路を渡る」という一切の行為を禁止することにしました。

そんな我が家のルールを制定したにも関わらず、近隣住民は試験運転の最中、いい歳の大人が平気な顔で線路を横断していきます。

教育上、よろしくありません.....。

我が子を持つ親として9年間子育てをしてきて以来、家内のルールと世間のモラルのギャップを感じた瞬間でもありました。

 

それだけ、鉄道が近隣の住民に与える影響の大きさというものを、いい意味でも難しい意味でも思い知る事になったのでした。

 

宮古異業種交流会

宮古市内の事業所の経営者が集い、相互の親睦と自己の研鑽を目的として組織された宮古異業種交流会。

毎月1回、市内のホテルに集まり、ゲストの方を読んで講話を頂戴しながら様々な情報交換をしていきます。

当月の例会では、私も幹事であったので、会場となったホテルでの準備からゲストさんとの打ち合わせなど、2月から準備を重ねてきました。

何と、3月の例会のゲストは三陸鉄道株式会社の中村一郎代表取締役だったのです。

中村社長は平成28年度から前任の望月社長から三鉄を受け継ぎ、これまで舵取りをされてきて現在に至ります。

今回のJRのからの移管に際して、最もご苦労された方です。

 

 

今回の移管に際しての話から、沿線の住民に対して三鉄が果たすべき役割など、約30分のあいだ熱く語って頂きました。

 

三陸鉄道は全国で初めて第三セクター方式で設立された歴史的な鉄道です。

震災前は岩手県沿岸の久慈~宮古間を走る北リアス線と宮古~大船渡を走る南リアス線とを分けての運行でしたが、今回のJRからの移管を受けて、久慈市から大船渡市までの岩手県沿岸の殆どの沿線をカバーする全長163kmの路線を有する事となりました。

これは第三セクター方式の鉄道の中では最長の保有なのだそうです。

現在、三鉄さんは利用客が年々減少している状況を真に受けての厳しい赤字経営が続いています。

JR東日本が管轄していた宮古~釜石間のJR山田線も然りです。

今回の復旧に際しJRさんは当初、もともと赤字路線であった宮古釜石間の復旧はありえないという考えていたようです。さらに被災した線路・駅舎等の復旧にも莫大な金が掛かります。

しかし、国の支援も受けつつ、もともと赤字路線であった宮古釜石間を赤字経営を覚悟で三鉄さんが引き継いでくれる.....。

こんな地域のために頑張る鉄道会社を近隣の住民が見捨てるはずがありません。

 

その地域の想いがどれほども事だったか、次の章をご覧頂ければお分かり頂けると思います。

 

3月23日 開通

3月23日。

正午前に一番列車が三鉄宮古駅を出ます。

我々磯鶏(そけい)駅は宮古駅の次の駅。

磯鶏駅のホームで一番列車の到着を待っていました。

 

カメラアングルの一番良さそうなホームの端っこに陣取るため、到着の約1時間前くらいからスタンバっていました。

1時間前ということもあり、ホームにはまだ観客はまばらです。

いいとこ2~30人くらいかな....。とたかをくくっていましたところ......

 

時間が迫ると同時に、わんさか人が溢れかえってきます。

 

 

石崎町内会、沖町内会、上村町内会から総勢300人程度は集まったと思います。

線路をまたぐように住民が勢揃い。

一番列車の到着を待ちます。

 

3月23日 土曜日 PM12:05。

一番列車が震災後初めてリアス線磯鶏駅に入ろうとしています。

 

待っていた近隣住民のみんなで盛大にお出迎え

 

この日一番列車を走らせる事になった中村社長をはじめ三鉄の社員さんの皆様も、きっと感極まるところがあったにちがいありません。

 

磯鶏駅には正味30秒ほどの停車でしたが、それそれがそれぞれの歓迎スタイルで歓迎します。因みにに乗り降りはありません。

 

私もカメラを構えながらの余った片手を一生懸命振りつつ、もう片方の手でシャッタを切ります。

 

満員でしたね.....\(^o^)/喜。

 

 

走り去るその後姿にも何とも言えぬ余韻が漂ってますね。

 

こうして新設された次の駅、八木沢・宮古短大駅へと走っていきました。

 

磯鶏駅は特にイベントの予定がなかったのであっという間の出来事でしたが、この度新設された八木沢・宮古短大駅と津軽石の払川駅、そして震災後新築されたヤマダ駅などではセレモニーが行われたようです。

それにしても沿線住民の皆様の歓迎振りは自分の想像をはるかに超えていました。

帰り際に磯鶏駅を後にする人々の数を見てみると、ざっと300名は居ましたかね....。

これが近隣住民の期待度の高さを物語っているのでしょう。

 

 

まとめ

一家に2台3台クルマがあるのが当たり前となった昨今、家族で鉄道やバスなどを使って旅行に行くなんて、すっかり疎遠になってしまいました。

私自身も思い起こせは、鉄道を使って家族で旅行に行ったという記憶は小学校1年生のときにJRの山田線で盛岡に行ったときぐらいでしょうか。

あとは高校の部活の遠征で使ったくらいです。新幹線は別ですよ。ローカル線での話です。

 

三鉄さんの経営を助ける為に言うわけではありませんが、先述の通り昨今のクルマ社会を鑑みても「鉄道を使ってどこかに赴く」という行為は、敢えてその機会を作らなければ殆ど不可能に近いものがあります。

皆さんクルマ持ってますから、クルマで移動したほうが楽で良いのです。

しかし、家族でおやつや弁当を持ちながらたまの休みに鉄道で久慈や釜石に行ってみるのも楽しいかも知れませんね。

 

このブログを見てくださっている方々も、是非自ら機会を作って三鉄のご利用をしていただきます事、管理人からも切にお願いしたいところであります。

私は趣味でロードバイクをしている都合、年に1回久慈までの距離を三鉄で移動しロードバイクで宮古まで返ってくるというイベントに参加するので最低1回は乗る事が決まっていますが、これだけではとても足りないです。

今年は釜石か大船渡まで三鉄で移動してロードバイクで返ってくるという企画を是非一人でやってみたいと思います!。

ロードバイクでご一緒してくれるという方、是非管理人までご一報ください....笑。

 

三鉄さんの今後益々の発展とご健勝を祈念いたしまして、この辺で締めさせていただきます。

ガンバレ!三鉄。

 

 

 

 

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