東日本大震災関連

東日本大震災からの軌跡・・・過去連載記事 ②

2015年2月26日

この記事は、他のブログにて震災直後の様子、旧建物(民宿時代)が解体されていく様子をUPしたものです。現在進行形の記事ではありません。

目次

掲載日時:2011年3月25日(gooブログより)

東日本大震災から2週間が経ちました。

日々の岩手県宮古市内の状況をブログアップできれば良かったのですが、ネット環境はおろか、一般電話回線も不通状態となっていた事から、残念ながら毎日のアップは出来ませんでした。
当ファミレスは震災時3月11日PM14:48分、30名程度のお客さまが店内にいらっしゃいました。

 

 

地震発生当時、は私はキッチンでディナー前のスタンバイをしていました。

 

激しい地なりと共に襲った激しい揺れ、震度5強の揺れにキッチン内の什器は次々と床に叩きつけられるように棚から落下し、激しい音を立て割れていきました。

天井に埋め込まれたエアコンのフィルターは次々と落下し、キッチンの天井側面を覆うように設置されたステンレス製のダクトフードも、その激しい揺れに同調するようにバコンバコンと激しい音を立てていました。

ホールのお客様の避難誘導は当時ホールに居たO副店長にお願いし、私は11か所あるガスの元栓を落下物を交わしながら必死に締めてまわりました。つーか、死ぬかとおもいました。

全員避難したかと思いきや、なんと休憩室に従業員が居るではありませんか!!「みんな早く出て!!」と叫び、従業員も避難完了。その後、お客様用のトイレを確認し、全員の避難を確認してから、最後に店舗を出ようとした自分はその後身動きが取れず、店の中で立ち往生・・・。

 

「これは津波が来るな・・・」

 

と思っていた数分後、市内の防災無線から

 

「大津波警報が発令されました。直ちに避難して下さい・・・」

 

生まれて37年、そのうちの27年宮古に住んでいて初の「大津波警報」、これは街がどうにななってしまうという何とも言えない不安に襲われました。

外に避難して頂いたお客様には一時店内に入ってもらいました。

副店長とも相談してお会計はしてもらわず、そのままお客様には避難してもらおうという事で意見が一致し、その旨を話すも全てのお客様がお会計をしていかれました。

その後、火のもとを再度確認してからブレーカーを落とし、鍵をかけて我々も避難する事に・・・。

 

とりあえず避難!

それから1週間近く顔を見ない従業員もいました。

私はアパートに戻り、妻と子供に身支度をさせて家族3人で近所の団地(高台)へ2時間程避難しました。

避難時、当時2歳の息子のミルクを作るための1回分のお湯を水筒に詰めたのはいいが既に使いきっており、取りあえずアパートに戻る事に。

電気は停電のまま、幸いだったのがガスがプロパンだった事。

水道も3階建てのアパートが高置タンクだったことが幸いし、何とか出ました。

が、高置タンクは水位が下がるとポンプで本管から水を吸い上げるもの・・・当然停電状態では水位が下がってもモーターが動かない・・・。

このアパートの住人がその事をどれだけ知ってて節水に努めてくれたかは分かりませんが、我が家は飲料用と手洗い、洗顔用のみというルールを作りました。

トイレは1日に1回のみ流す・・・。

結局3日で水は出なくなりました。

プロパンガスが使えたので、震災当日の夕食は冷や飯をフライパンで炒めてチャーハンに。

嫁に懐中電灯でフライパンを照らして貰って自分が炒めるという連携プレイ。

でも、実際に家を流されて避難なさっている方は、食べるどころか飲み物も無かったと聞きます。我が家は本当に幸せなほうでした。

 

夜になっても震度5クラスの余震が続き、市内は防災無線、緊急車両のサイレンが鳴りっぱなし。

大津波警報解除の兆しは一向にありません。

 

真っ暗闇の中、余震が起こる度に近所から悲鳴が聞こえて来ます。

そんな中、やはり気になるのは、海にほど近い場所にある民宿を兼ねた実家。

 

嫁に

 

「実家の様子を見てきたい」

 

と告げると

 

「警報も解除されていないのに出歩かないで!」

 

と止められましたが、実家に一人残っている母がどうなったのかが気がかりでした。

当時、携帯も持たせておりませんでしたので連絡が取れません。

 

嫁を何とか説得して、アパートから5キロほど離れた実家に向かいました。

当然、停電中なので、市内は真っ暗闇。信号も付いていません。

 

頼りになるのは、自分の車のヘッドライトだけです。

 

まるで、廃墟になった山中の村を走っているような感覚。

関心したのが、信号が付いていないのに交差点では皆が互いに譲り合って左右確認をしながら通過している光景を目撃した時。

日本人で凄いな~と感じました。

 

沿岸に近づいてくると、予想もしなかった光景を次々と目撃する事になります。

そして、その時点で実家があんな事になっていたとは、当時は知るよしもありませんでした・・・。

次回に続きます。

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