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震災から10年
未曾有の大震災となった東日本大震災から10年を迎えました。
このブログでも度々震災の記事について書いてまいりましたが、もう10年も前のことになるんですね。
まさに激動の10年。
私の人生も180度変わってしまいました。
100年に一度とか1000年に一度と言われている大災害でしたが、日本にとっても被災地にとっても、国内における災害での死者・行方不明者数では最大規模の災害とも言われています。
その大災害の渦中にある宮古市ですが、被災地の中では最も復興が早かったとされていますが、ここでいう「復興」とは何を意味するのか、なにがどうなれば「復興が完了した」といえるのか、今回の記事で考えてみたいと思います。
「震災から10年」の動画を作成しました
管理人の趣味はロードバイクなのですが、現在YouTubeのほうでロードバイク専門のチャンネルを運営しています。
当初はみかわ旅館のYouTubeチャンネルも作ろうか悩んだのですが、ウェブサイトと一緒で複数運営に手を出していつも自滅しているので辞めました笑。
みかわ旅館の料理チャンネルとかやったら需要あるかな....悩。
あ、本題にはいります。
先述のとおり、私が運営しているYou Tubeチャンネルは上記の通りなのですが、震災から10年の節目を迎えるにあたり何かしら動画で発信出来ないものか?と悩んでました。
とはいっても、現在私が運営しているチャンネルはロードバイクのチャンネルのみです。
ロードバイクのチャンネルで被災地宮古の特集をするというものおかしな話。
だってロードバイクのチャンネルですもん。
でも、やはり被災地でチャンネル運営しているとなにかと震災の話題には触れなければならない場面があります。
ロードバイクといえば道路を走りますから、震災により変わった道路事情とかロードバイクで走る風景が変わったとか....。
だからロードバイクやマウンテンバイク、いわゆる自転車で宮古市内を走り回り、震災直後の宮古市と震災から10年目を迎えた宮古市の風景を比較するという動画を作ることにしました。
それが下記の動画です。
自転車に興味のない方のほうが多いと思われますが、是非、チャンネル登録をお願いします。
ロードバイクのレースに関わる内容の動画とかもありますが、基本はVlog形式で動画を作成していますので、自転車を知らない人や興味のない人でも楽しめるチャンネルを目指しています。
さて、そんな上記の動画、【東日本大震災】発災から10年 ~かわりゆく宮古市の風景~ と題して約30分の内容の動画となっています。
企画立案:1ヶ月
撮影期間:4日
編集 :19時間
というとてつもない時間を要してしまいました。
チャンネルを運営していると、視聴者さんを飽きさせないために定期的に動画をUPしていかなければならないのですが、今回の動画は内容が内容ですし、撮影場所も広範囲に及んでいることから撮影にも期間が必要でした。
しかも、自転車でのチャンネルですので、撮影場所に行くものすべて自転車で...という暗黙のルール的なものを自分で作ったため自滅してしまいました笑。
別に車に自転車を積んで移動して、あたかも「自転車で来ました」という体で撮影してもバレなかったかも笑。
でも、本当に自転車で移動したんですよ!すべて!。
詳しくは動画を御覧ください。
動画内で紹介した震災直後といまの宮古市を画像で振り返る
鍬ヶ崎(漁協ビル前)
発災時
令和3年2月
新町(交差点付近)
発災時
令和3年2月
金浜(稲荷神社付近)
発災時
令和3年2月
金浜入口
発災時
令和3年2月
光岸地
発災時
令和3年2月
愛宕交差点付近
発災時
令和3年2月
石崎交差点付近
発災時
令和3年2月
新町交差点付近2
発災時
令和3年2月
石崎交差点付近 国道45号線沿
発災時
令和3年2月
向町
発災時
令和3年2月
藤の川
発災時
令和3年2月
鍬ヶ崎(浄土ヶ浜大橋より鍬ヶ崎方面撮影)
震災時
令和3年2月
宮古大橋(新川町)
平成28年撮影(宮古市役所移動前)
令和3年2月
宮古駅周辺(出逢い橋より)
平成28年撮影
令和3年2月
磯鶏石崎
発災時
令和3年2月
磯鶏石崎
震災前
令和3年2月
最後の写真の比較はまさにみかわ旅館の裏手の山の写真ですが、宮古西道路着工前と令和3年2月現在の画像比較ですので、その変わりように我ながら驚いてしいまいます。
震災前はただの山だったのに、震災後はその山が切り開かれて道路になっていますからね。
震災が無ければこのような道路が出来るようなことも無かったことでしょう。
それから浄土ヶ浜大橋から撮った鍬ヶ崎の写真
街がすっかり変わってしまっています。
これはそれだけ当時の被害が大きかったことを表します。
特に鍬ヶ崎とお隣の日立浜は宮古市内でも被害が最も大きかった街のひとつですから、なおさらその変わりように驚きを隠せません。
10年という歳月は街をもガラッと変えてしまうのです。
真の「復興」とは
「10年で復興が完了した」という文言をネットやニュースで耳にします。
この「復興が完了した」とは何を意味するのでしょうか?
10年というのはある意味、節目として一つの通過点であるに過ぎませんが、被災して自宅を失った人、家族や仲間を失ってしまった人からすればただの期間に過ぎません。
復興が完了したとは、国や自治体が定める復興期間の一区切りであるだけてあって、被災者からすればただの通過点です。
大切な人を失った悲しみというものは、たかだか10年という歳月だけではなんの解決にもならないのです。
被災者はあの辛い震災を乗り越えて今があるわけですが、悲しのどん底から這い上がり前を向いて生きていこうと気持ちが前向きになったらそれが「心の復興」なのかも知れません。
しかし、ここでいう「復興」したからとて、震災の出来事を「風化」させてはならないと思うのです。
風化した時点で、人は災害から身を守る術を放棄してしまいそうで怖いのです。
「津波は怖いもの」
いま、被災地に住む津波を経験した方々の記憶には「津波は怖いもの」という経験が鮮明に記憶してあります。
しかし、その津波を経験していない人もなかには居ます。
そして、震災後に生まれてきた子どもたちは震災の怖さを知りません。
それを語り継いていき、震災の怖さを後世に伝えて少しでも多くの命を守ることが「風化させない」ために忘れてはいけないものだと思うのです。
まとめ
激動の10年間を振り返ると、街並みも変わり、人々の心境にも様々な変化が見受けられます。
しかし、何度も言うように10年とはただの通過点でしか無いのです。
これから15年、20年と歴史を重ねれいかなければならない被災地は過去の辛い思いを胸に将来を見据えて前に進んでいかなければなりません。
過去は振り返らず、ただ記憶にとどめ、10年後、10年後を創造し、今を生きなければなりません。
そして、後世の子どもたちのために、住みよい社会を築いてあげなければなりません。
自分たちが老いるまでにやらなければならないことは、まだまだたくさんあります。
だから下ばかり向いていてはいけません。
これからも前向きに生きていきます。